@article{oai:aue.repo.nii.ac.jp:00002144, author = {内田, 良}, journal = {愛知教育大学教育実践総合センター紀要}, month = {Feb}, note = {text, 1990年代末頃から「臨床」を掲げる研究スタイルが台頭してきた。一時期のブームを過ぎたいま,臨床研究の目的や方法を問い直していく作業が必要である。本稿では,筆者が進めてきた児童虐待の研究を題材にして,臨床社会学や臨床教育社会学における「臨床」の位置づけについて考えていく。その手がかりとして本稿では,「支援は誰のためか」という問いを立てる。臨床研究では支援は「現場のため」「あなたのため」である。だが,主役を「あなた」や「現場」に求める態度は,他方で専門家の意図や政治性を見えにくくする。「支援は誰のためか」という問いは,「誰」を問うだけにとどまらず,臨床の専門家による「支援」のあり方をも問う作業となるはずである。児童虐待防止の活動においては,“Children first” の思想が重視されている。「子ども最優先」で,介入・支援を進めていこうとする動きである。だが,そもそも「子ども側にとって有害」というときの「有害」とは何か。その基準は誰が決めるのか。 じつは結局のところ,保護者の行為を最終的に「虐待」かどうか判断するのは,専門家である。表舞台では”Children First” が信仰され,裏舞台では”Professionals First” が進行している。ただし,「専門家最優先」自体が問題でもなく,「子ども最優先」自体が問題でもない。「子ども最優先」と言った途端に専門家の意図がみえなくなることが問題である。児童虐待防止活動では,子どもの「心の傷」に積極的に注目しようという動きがある。ここでは「子ども最優先」と「心の傷」が結びついている。その主翼を担うのは臨床心理学の知である。いっぽう近年,社会の心理主義化がしばしば指摘されている。それは社会学のような心理学外部からの批判が大半であるが,じつは精神科医や心理学者の内部からも批判がある。私たちはそこから,自省的な臨床のスタイルを学びとる必要がある。心理学的な「知」の拡大への批判とは,専門家支配への批判でもある。臨床教育社会学は,「あなたのため」という名の下に,自身の専門知が教育現場をどう支配しているのかという問いに直接向き合わなければならないであろう。この点については,教育社会学は,社会学と比較したとき,学校という現場(フィールド)をすでに有しているだけに,とりわけ留意すべきである。}, pages = {269--276}, title = {支援は誰のためか ―児童虐待の防止活動から臨床教育社会学の立場を考える―}, volume = {10}, year = {2007} }